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ギャオス・・・・

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38 :
神夏 純一郎(主)
 シンギュラリティな米国論の行末・・・35

 その対立が端緒に現れたのが、旅順攻囲戦であった。203高地の奪取を優先させるべ
きとする山縣らと、旅順要塞の奪取を優先させようとする満州軍総司令部の対立が発生
した。山縣は、御前会議の決定を通じて満州軍総司令部にしつこく方針転換を促したが
、聞き入れなった。その為満州軍が二〇三高地奪取に転じるのは第三回総攻撃が失敗し
た後のことであった。旅順要塞の陥落と、日本海海戦勝利により戦争の大勢は日本優勢
で決したのだが、一方で、12月05日に桂首相は、政友会の原敬と議会での協力の代わり
に戦後に政権を譲る。という密約を結んでいたのだ。これは山縣に無断で行われたもの
であり、山縣系の閣僚である清浦奎吾農商務大臣や寺内陸軍大臣にも伝えられていなか
った。明治38年(1905年)3月に、参謀本部の意向を受け、ウラジオストク、樺太など
の占領を含めた積極的作戦方針を上奏する。しかしこれは閣議において否決されている
。7月頃には満州で巡視を行い、多数の死者を弔う事で停戦から日露交渉に合意した。
ポーツマス会議が行われた8月には体調を崩し、椿山荘で療養に努め。秋に伊藤から、
桂内閣と政友会の密約を知ることになる。しかも、桂は弁明せず、平田東助前農商務相
を通じて弁明した。このことで山縣の怒りは頂点に達した。驚いた桂は11月中旬に自ら
山縣の元を訪れて弁明し、山縣も政友会にではなく「侯爵西園寺公望」に政権を譲ると
いうことで了解した。12月には参謀総長兼兵站総監を辞任している。こうして、西園寺
公望の内閣が発足する。ポーツマス条約締結後の1905年12月20日に内閣総辞職を決意、
後継に西園寺総裁を奏請する。翌1906年1月6日、元老会議の承認を経て、明治天皇より
西園寺総裁に大命降下、7日に内閣が発足する。がここで又日本のシンギュラリティが
起こっている。つまり、この混乱期に鉄道王ハリマンが訪れていたのである。ハリマン
の要点はただ一つ、満州鉄道の共同経営である。この共同経営案はポーツマス講和会議
の日本の講和団の小村寿太郎に連絡されないまま、仮承認された。しかし、この承認の
知らせを受けて、ポーツマス講和は終結した。正に電信の恐ろしさである。
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