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ギャオス・・・・

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37 :
神夏 純一郎(主)
 シンギュラリティな米国論の行末・・・34

 第二次伊藤内閣が倒れる頃、山縣は大山・西郷らとともに軍人最高の地位である元帥
の称号を受けた。これによって、終身現役軍人となる。陸軍の重要人事に伊藤が辞任し
、憲政会の大隈・板垣を後継とする旨を上奏、明治天皇は「伊藤の内閣に大隈と板垣が
入閣する」と考え、これを許可したが、しかし、それは誤解で、悟った明治天皇は山縣
に組閣を依頼したのだった。山縣は大隈らに伝わっている以上撤回は困難。天皇に累が
及ぶとして辞退した。成立した第1次大隈内閣は、閣僚を憲政会党員が占める政党内閣
となった。桂太郎のみが引き続き陸相を務めたくらい。山縣は、政党内閣成立を「明治
政府の落城」と嘆いた。しかし、朝鮮政情がロシア一色になるにつれ、戦争が危惧され
た。明治35年(1902年)ロシアの朝鮮半島への進出が躊躇となる状況となり山縣の別荘
の無鄰菴で、伊藤・桂・小村寿太郎外相とともに対応を話し合う無鄰菴会議が行われた
。が、明確な方針は打ち出せなかった。一方で、桂と山縣は伊藤と政友会を切り離して
解体させることを狙い、明治36年(1903年)桂は辞表を提出した。桂は辞任撤回の条件
として伊藤の枢密院議長就任を天皇に承諾させた。このため、伊藤は枢密院議長に就任
し、政友会総裁を辞任せざるを得なったが、後任の総裁西園寺公望と幹部の原敬が動き
政友会の動揺を防いだため、桂と山縣らの目論見は外れたのである。従来、山縣は陸軍
内で開戦慎重派であった。ここに至って開戦の覚悟を定め結局、ロシアは日本側の供給
に明確に応じず、明治37年(1904年)山縣も参加した御前会議で日露開戦が決定された
。こうして山縣有朋も大本営のメンバーとなる。児玉源太郎参謀次長は、参謀本部主導
の強力な権限を持つ陸軍大総督府を設置する案を提案し、参謀本部(軍令)と陸軍省(
軍政)の対立が起こった。山縣は陸軍省側に立ち、海軍の協力も得て作戦指導のみを、
担当する高等作戦司令部を設置する案を上奏し、天皇はこれを受けて満州軍総司令部の
設立を裁可した。これが陸海軍の別働根拠となっていくのである。
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