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ギャオス・・・・

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36 :
神夏 純一郎(主)
 シンギュラリティな米国論の行末・・・33

 内務大臣になって、地方自治の形成に尽力し、市制・町村制・府県制・郡制を制定し
た。内相就任前から地方制度に関する意見書を政府に提出し、市町村制の公布に際し、
明治20年(1887年)地方制度の編纂委員会で委員長を務め、ドイツのお雇い外国人のア
ルベルト・モッセ、同郷青木周蔵・野村靖らを委員として、ドイツの制度を参考にした
自治制を日本に合うように修正・定着する方針に決めて進んだ。しかし自治を促しつつ
国から地方へのコントロールも行える仕組みは、難題だった。これに取り組み、国から
地方への行政執行命令と国税徴収を通しての規制強化し、中央と地方の関係を構築させ
ようと試みている。しかし、のちに山縣は方針を変え、府県郡制施行で知事と、郡長の
権限を拡大、山縣系官僚が郡を通して町村を統制した。このため、軍と並び地方も山縣
の派閥の根拠地となっていったのである。有朋時代の、明治27年(1894年)になると、
朝鮮では甲午農民戦争が勃発し、宗主国である清と日本の緊張が高まり、伊藤内閣も清
との戦争を覚悟するようになっていく。6月下旬、山縣は釜山から上陸し、朝鮮半島を
北上する戦争計画を立案した。が、陸軍や海軍には受け入れられなかったどころか反対
の案すら出た。7月から始まった日清戦争では、枢密院議長として大本営のメンバーで
あったがしかし、56歳の老齢にもかかわらず戦地に赴くことを希望し、8月8日に第一軍
司令官の内命を受け、9月8日に宇品港を出向して朝鮮半島に向かったのである。この、
日清戦争後は、伊藤が内閣と議会の関係を模索する状態になった。立憲自由党と手を組
み連立を構想し、また松方は伊藤への対抗として大隈重信の進歩党との提携を企ててい
たという政党内閣に変わっていく。しかし、藩閥官僚はこれに強く反発、反政党を貫く
自由主義の山縣を旗印とする派閥を形成していくこととなった。
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