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ギャオス・・・・

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35 :
神夏 純一郎(主)
 シンギュラリティな米国論の行末・・・32

。そうした中で、欧米以上に競争に徹したのが満州国で、の基盤となった一つが、日窒
コンツェルン(にっちつコンツェルン)であろう。日本科学の祖 とされる野口遵氏に
よって設立された日本窒素肥料(日窒・現在のチッソ)を中心とする、財閥団体だった
。今や戦前の15大財閥の1つとされたが、現実には、戦前に戦争特需が産んだ 単なる
民間の肥料会社に過ぎなかった。しかし、第一次大戦後陸軍は、この会社の方針に感動
して長州閥の威信をかけて相談を持ち込んだ。山県有朋は長州武士だった。明治2年3月
、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、西郷の弟・西郷従道とともに渡欧
し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊
し、翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月に横浜港に到着した西洋を知る人だった
。京都では薩摩藩の倒幕派である西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆らと交流し倒幕運動
の徒でもあった。西南戦争で財政が枯渇し経費を節減したため、陸軍内には不満が蓄積
し、西周起草の『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布したり、軍紀の引き締め
を図ったりしている。内閣に参謀を作ろうとしたが、井上馨の反対も有り、西郷従道の
提案で参謀局は独立して参謀本部が成立する運びとなり、この外局になった事が日本を
苦しめた。山縣は1879年から将校十余名と桂を駐在武官や語学研究生として清へ派遣し
、兵役改革を調査をさせ、その報告を受け、1880年(明治13年)11月30日に、天皇に「
進隣邦兵備略表」を上奏する。こうした事で内閣や議会改造を図る、山縣の願いで参謀
本部長の兼任が解かれ、内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第1次の伊藤内閣の
内務大臣となった。しかし、三浦梧楼ら四将軍派、陸軍内若手の月曜会などは、山縣ら
の主導による軍拡に反対しまた、予算上の問題から伊藤と井上が軍拡計画の再考を求め
た。内部分裂を恐れて四将軍派の懐柔を提案したが、山縣らの、軍拡計画は明治26年(
1893年)度まで延期となるなど一向に進まなかったのである。
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